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代表プロフィール

榎本 恵 Megumi Enomoto

福岡県北九州市小倉生まれ。ペンバ・ナティティ地区在住。

大学卒業後、京都、東京の広告代理店で販促・ブランド開発・ 商業開発に関するプランナー&コピーライターとして勤務。 2000年起業・事業拡大支援を行う Planning MAY を開業。 インキュベーション事業、販促、人材育成などを行う。 主に環境・農業系企業、通販・教育系企業の支援を手がける。 2012年、日系企業のモザンビーク進出をきっかけに、 初めてアフリカの地を踏む。半年間、新規事業開発業務を行う。

現地で目の当たりにした環境問題と貧困問題のジレンマ、 先進国と後進国の都合論の不調和を少しでも解消すべく 2013年4月『モザンビークのいのちをつなぐ会』を設立。以来、NGO活動のみに注力中。2018年12月、一般社団法人(非営利)化。

【榎本恵への8つの質問】

Q-1: なぜ、モザンビークでNGOを始めたの?

A-1: アフリカには「資本主義最後の楽園」という側面から前々から興味があり、いつかアフリカで仕事をしたいと思っていたところ、モザンビークでのお仕事の依頼があり、始めて上陸した国がモザンビークだったのです。モザンビーク北部は首都から最も離れており、貧困が深刻で支援の手が全く届いていない土地だったこと、また仕事を通じて、絶対的に信頼できるモザンビーク人と知り合ったことでNGOを立ち上げるに至りました。公私ともに信頼できるモザンビーク人と出会えていなければ、これまでNGOを続けていけなかったと思います。

Q-2: どういうところに住んでいるの??

A-2: NGOを始める時に、『スラムの人たちと同じ生活をして、信頼関係を創りながら、コミュニティの皆がほんとうに必要なことのために、皆と動く』ということを重視していて、スラム地区で住まいを探しました。いろんな人にあたってみて、結局、スラムでも一番人口が密集しているナティティ地区のど真ん中に住んでいるナジャファミリーの家を事務所兼住まいにすることにしました。

スラムの事務所兼住居

Q-3: ナジャさんとはどうやって知り合ったのですか?

A-3: モザンビークに渡ってすぐの時、私がポルトガル語もろくに喋れないときに、ミュージシャンの家でご飯を食べましょうと誘われて行った場所で、ナジャに最初に会いました。ナジャは無口だし、私はポルトガル語がしゃべれないしと、その場にいたアーティストたちとほとんど話をしなかったのですが、ナジャに対しては、このひとは信頼できる!と直感的に感じたのをよく覚えています。驚くほど透明でまっすぐした精神を感じたのですが、今でも変わっていないですね。

Q-4: なぜ、寺子屋を始めたのですか?

A-4: NGOを立ち上げて、一番最初に行ったのは、農村地区の友人と一緒に、井戸やトイレを設置するというものでした。その時もニュースで、先進国によるアフリカの土地の収奪 が問題化してていたのですが、開発側が一方的に悪いわけでもない。先進国が開発を行い、文字もろくに読めない住民が契約書にサインする、という流れは止めようがないので、せめて文字を読めるようにしなければ、状況が悪化する!やはり、教育から始めないと同じことを繰り返してしまう!と、教育を循環させ無教育の連鎖を断ち切る「寺子屋」を建設することを決めたのです。
その時に、以前からアーティストとして社会貢献活動を行ってきていたナジャが、自分がやる!と言ってくれ、それからナジャがコミュニティの職人さんと一から建設をし、今でも寺子屋のディレクターをしています。寺子屋の子どもたちにとって優しいお父さんのような存在になっています。

2014年建築中の寺子屋とナジャ

Q-5: 寺子屋にはどんな子が、何人ぐらいいるの?

A-5: 寺子屋に通っている子どもは寺子屋のあるナティティ地区の子どもがメインで、隣のカリアコ地区、インゴナニ地区の子どもたちも通所しています。ペンバのあるカーボデルガド州はイスラム過激派のテロ紛争が2019年から激化しているのですが、2020年からテロ避難民の子どもたちも通うようになって、総勢300-350人の子どもたちが寺子屋に通ってきています。年齢は2歳から15歳がメインです。
子どもたちは両親が揃っている子のほうが少なくて、大家族かつ貧困のため、親からケアされていない子が多く、道徳観が育っていない子が多かったです。だから、子どもたちひとりひとりにたぷりと愛情を注いで、道徳(あいさつ、ものを大切にする、うそをつかない等)を基本にして、読み書きや算数、音楽、英語、平和教育などを行っています。寺子屋は日本でいうところの児童館のような場所で、行政の管理下にある学校ではありません。学校はあるのですが、奨学用品がなかったり、親が学校に行くことを勧めないことから、学校に通わない/通えない子どもたちが多かったのですが、今ではほぼ全員が学校に通うようになっています。
寺子屋で成長した子どもたちが年長者になって、今では、幼児組や年少組のお世話をしたり、勉強を教えると、寺子屋が目指していた、教育の循環が、出来てきています。

Q-6: 資金集めはどうしているの?

A-6: 8割、9割を助成金でまかなっています。財団法人や企業が公募している助成金に応募して採択されたら助成金をいただけるという形です。そのほうが説明責任を詳細かつ明確に果たせるのでベストな方法であると考えています。
でも、子どもたちの数が増えたり、テロ紛争が起きたりして、必要な資金が増えていっていること、また私がどこまでこの事務仕事の激務を続けていけるのか、という問題があります。だから、これから寄付金も募集にも力を入れていきたいと思っています。
モザンビークは知名度が低いし、私たちのNGOの知名度が低いので、なかなか注目されない。資金を集めやすい土壌(日本人が旅行に行く国・エリア、情報が集まり拡散しやすい首都・メディアが入ってきているエリア)ではなく、実際に、スタディツアーも治安が悪い(イスラム過激派のテロ紛争が起きている)や衛生状況の理由から実施にリスクがありすぎるから行ったことがないのです。ですが、だからこそ、ひかりの当たらない人たちを支援するというNGO活動本来の意義があるわけです。
日本の人たちの力を借りて寄付を増やし、また現地のスタッフと知恵を絞って、資金調達の方法も発展強化していきたいと思っています。

Q-7: スラム地区でNGO活動をしていて一番うれしいことと、つらいことは何ですか?

A-7: いちばん嬉しいことは、やっぱり子どもたちの成長。子どもたちが質問をしてくる内容やバリエーションが増えていくことです。それとスタッフも含め青年たちが進学したり就職したりすることも嬉しいです。現地は失業率が7割ぐらいで、なかなか仕事が無いのです。ほんとうに食べていくのが大変です。そんな中、努力をして、未来を切り拓く道を歩んでいってくれるのは、尊敬に値します。
つらいことは、子どもが亡くなることです。以前、5歳未満の乳幼児死亡率が18%と、5.5人に1人が5歳の誕生日を迎えられずに亡くなっていました。今、公表されている数値としては改善しているのですが、実際に現地にいると、やはり乳幼児の死に対面してしまいます。ナジャも姪っ子をウイルス感染症と思われる病気で亡くしています。それに、20代30代でも病気で亡くなることが珍しくないのです。
医療の質が低いままですし、病院に行ってもお金がないから薬を買えないことも多々。病院に運ぶのも一苦労で、だから寺子屋で保有している車が、コミュニティの人たちの足として、急病や死人が出たときの頼りとして機能しています。
子どもたち、青年たち、スタッフの健康に気配りしておくのも、私の大切な仕事だと思っています。

改装してキレイになった私の部屋でサンダルの修理をする寺子屋キッズ

Q-8: 日本の人たちに伝えたいことは何ですか?

Q-8: モザンビークの北部は今はイスラム過激派の攻撃で治安が悪化していますが、もともと牧歌的で素朴な気質の場所です。自分が、自分が!とガツガツしていないし、困っている人がいれば、知らない人でも当たり前のように助けます。これは子どもたちも同じです。またナティティ地区には路上生活をしている人たちがいますが、夜寝る時は、誰かが必ず軒先やベッドを貸してあげて、路上で夜を過ごすということもほとんどありません。
だから、この「助け合うのが当たり前」という風土を守り、強化しながら、活動を行っていきたいと思っています。
個人主義やグローバリズムが横行すると、所有欲、独占欲、ひとを風景として見てしまうことを無いし的にもしていく傾向に陥ります。
このナティティにある風景は、かつての日本にもあった風景でしょう。私が幼いころは隣のうちと醤油の貸し借りもまだありましたし、近所の家の人たちとみんなで旅行に行くこともありました。現代の日本の孤立化・孤独化を解決していくには、コミュニティの相互扶助力を高めていく、取り戻していくことが大切だと思っています。
本質的に、ひとが幸せであるために重要なことは、スラムであろうと先進国であろうと変わらないと思うのです。困っている人がいたら当たり前に助ければ良いし、楽しいことは皆で分かち合えばいい。
ほんとうは常識でもなんでもないことに囚われずに、生きたい方向へ、心も精神も開いていくことが大切だと思います。わたしも、まだまだ囚われていることが多々あるので、寺子屋の子どもたちや若い世代の人たち、人生の先輩から、学び続けたいと思います。

ナティティの家の前にいる子どもたち